「年末」は人の感覚を壊すと思っている

最初に断言しておくと、この年末年始という時期やそれに対する人々の考えを批判する意図でこの記事を書いたわけではない。私も浮かれ気分になっている身である。

部屋のデジタル時計が正しい時間を刻んでいるとしたらこれを書いているのは2019年12月28日20時00分45秒である。数十分前に夕食の鍋を食べ終え、冷凍庫にあったバナナ味のソフトクリームを平らげた後自室でのんびりし現在に至り、少しの尿意を抑えながら書いているがその情報はさほど重要ではない。

本題に移ろう。

冒頭を見ればわかっていただけたと思うがこれを書いているのは所謂年末の時期である。外国では知らないが少なくとも日本という国では一般的に「年が変わる」という事象は特別なものと認識されている。テレビ等では特集が組まれたり年末年始限定の特別な番組が放送されたりし、仕事を休みにする会社も多くなり、人々もどこか浮かれ気分になると思う。しかし、何故そんなにも年末年始が特別視されているかと聞かれれば、明確な回答を出せる人はそういないのではないかと思う。もちろん普通の日とは違い年が変わるという特別なイベントがあるというのは理由に含まれていると思うが、言ってしまえば年の変わるタイミングも人間が勝手に作ったものである。人間が勝手に作ったイベントで人間がどれだけ浮かれていようが、自然界では変わりなく生存競争が繰り広げられているだろうし、我が家の飼い猫もそんなことは露も知らず今日もキャットフードを食べてウンコをしている。何故このような話をしだしたのかというと先程の夕食の時に母が「明日今年最後の美容院に行く」という発言をしたことが発端である。



それ「今年最後の」って修飾語いる?



今年最後だから何なんだというのだろうか。今年最後なんです〜と申告すれば通常のサービスの代わりに鏡餅みたいなヘアースタイルにしてくれるとでも言うのだろうか。美容院から帰ってきた母が鏡餅のようなヘアースタイルで帰ってきたことは、少なくとも私は見たことがない。というか母に限らず鏡餅ヘアーの人など見たことがない。何が言いたいのかと言うと、うちの母は何でもかんでも「今年最後の」という修飾語を脳死でつけているのではないかということである。これは母に限らず世間の方々にも同じことが言える可能性が往々にしてあるだろう。これがいいとかダメとか言うつもりは毛頭ないし私はその権利を有していないと思っている。むしろ年末というイベントに風流的ななんかそんな感じのものを見いだせないという点で私の思考が劣っているのかもしれない。しかし母には申し訳ないが美容院レベルにさえその修飾語をつけようとは思わない。いや、ひょっとしたら美容院レベルで留まっているだけまだマシなのかもしれない。このまま進化していけばそのうち「今年最後の家の鍵かけ」とか「今年最後の着替え」とか言い出すのではないだろうか。さらに進化すると「今年最後の1月5日」とか「今年最後の12月23日」とか言い出した日には私はどうすればいいのか。想像すると「今年最後の」という修飾語なだけまだマシな方かもしれない。そのうちとんでもない境地に突入し「人生最後の2019年12月28日20時41分18秒」とか言い出すのではなかろうか。こうなってくるともはや日常生活が心配になってくるレベルである。毎秒毎秒を晴れの日の感覚で過ごし、そんなことを考えていては脳1つでは明らかに足りないだろう。毎秒年越しそばならぬ秒越しそばを作り、毎秒108回の鐘が鳴り響き、毎秒6時間ほどの番組が放送されることになる。そうなってくるといよいよ感覚の崩壊と言って差し支えないのではなかろうか。毎秒毎秒訪れる晴れの日に脳はキャパオーバーを起こし、脳が停止することで身体活動がままならなくなり、その勢いで体は爆発し、除夜の鐘も粉々になり、竜巻が発生し、遠いウルグアイの地ではジョニー君のリップクリームが紛失するだろう。また、脳がキャパオーバーを起こすことにより身体面のみならず精神面にも異常が起きる可能性があり鉤爪ヌルビンゴルモスせょpo那4dぬm:かろcsl縺薙o繧後k縺九s縺九¥縺ゅ◆縺セ縺後?縺阪→縺カ縺?s縺。縺後?繧翫?繧翫?√↑繧薙〒謗剃セソ縺ョ謫ャ髻ウ縺後?繧翫↑縺ョ縺九h縺上o縺九i縺ェ縺………




結局何が言いたかったかというと





















良いお年を
あっ、尿意なくなった